子どもが診断されたばかりのときや、療育をはじめばかりのときは、自閉症について分からないことだらけでした。何をしてあげたら寝るのか食べるのか話すのか、医師や専門家に相談しました。
人によって言うことや考え方が違い、何が正解なのかとりあえずやってみるという毎日でした。
今回ご紹介する本は、私が療育をはじめた頃に読んだ本です。
著者は心理士という専門家であり、重度障害児の親でもあります。両方の視点を持つ著者が、両方の気持ちが分かった上で書かれた本です。
一方的な親の気持ちを集めたものではなく、専門家との付き合い方についても書かれていて、当時の色んなことに気持ちが振り回されていた私には、自分軸ができてとても参考になった本です。
- 著者は、専門家であり、重度知的障害の親でもある
- 著者は相談「される側→する側」になったことで、両方の視点を体験
- 特に子どもが小さい頃の親の心境が書かれている
- 発達検査や療育をどう捉えればいいか
- 多くの親たちの疑問や悩みが載っている
- 専門家と付き合う上での考え方を整理できる
- 障害児の親の気持ちを理解したい人にも読んで欲しい本です
こころをラクに、あたまをクリアに
著者は専門家であり、重度障害児の親
著者の大林 泉さんは臨床心理士として、仕事をされている方です。専門家の仕事をしつつ、障害児の親として、仲間たちと一緒に放課後の学童保育も運営もされているそうです。
「相談をされる側」→「相談する側」にまわる体験の中で
・専門家にとって何気ない一言に、親はいかに傷ついてしまうか
・専門家の意図は分かるが、それが親の思いからはズレているということに気付く。
そこで大林さんはどこかに相談してみる度に、そこで感じたことを手帳に書き留め、では「どうあればよいのか」を考えるようになったそうです。
私は確かに専門家に対して怒っていましたが、それはそのまま、それまでの「専門家としての自分」がひっくり返る体験でした。「今までの自分はなんと無知で傲慢な専門家だったのか!」という思いに圧倒されていました。
引用:あとがきp157
多くのお母さんたちの声が載っている
大林さんは「言の葉通信」という親たちが日々の思い、体験談などを自由に投稿するサークル誌に出会い、仲間たちと体験を語り合っている内に、この本の出版となったそうです。
中古や図書館で
20年以上前の2003年に出版された本ですが、今読んでもお母さんの気持ちは同じだなぁと思います。古い本なので中古しかないのですが、図書館なので見かけることがあれば是非、手に取ってみてほしいです。
第1部 親たちの思いに耳を傾けて
第1部は、親たちの声をたくさん取り上げることで
専門家へ:親の気持ちを理解してもらえたら
親へ:多くの親の言葉を紹介することで、自分だけではないと思ってもらえたら
という思いで書かれています。
ゆれ動く親のこころ
- 1歳半~3歳にかけて心配なことが出てきて、子育て仲間に話しても「大丈夫」「気にし過ぎ」「心配ない」と言われ、誰にも理解されない疎外感がある。
- 突然「発達が遅れてるのではなないか?」と言われる場合もあり、その言葉により家の中の雰囲気が一変してしまう。
- 発達の遅れの原因が、周囲から母親のせいにされることもありますし、母親自身が自分自身を責めてしまうことも多い。
私も妊娠中からのママ友が何人かいました。話をしても育児の悩みのレベル・深刻さがあまりにも違い過ぎる。言っても伝わらない感じ。住む世界が違うんだと気付き、引越しを機に連絡を絶ちました。
やっぱり、この子は
人は衝撃的な出来事(回復の見込みのない病名の宣告)があると混乱し 否認→怒り→取引→抑うつ→受容 のプロセスがあるそうです。子どもの障害を知ったとき、簡単に受容できなくて当り前なのです。
障害の受け入れという言葉
- 「障害の受容=良いこと」とされるが、障害を認めてしまっては、親は完全に潰れてしまい、大変な子供の世話もできなくなってしまうかも知れません。「障害なんて嘘」と思うからこそ、日々の生活も何とか頑張れる。
- 「障害の受け入れができていない」とは、親には障害を受け入れることを要求し、一方自分は「障害を受け入れられない親」を受け入れるつもりはない、という都合のいいセリフではないでだろうか。
障害を受け入れていない親を悪く言う人は沢山います。療育の場の専門家も、園の先生からも「あのお母さんは~」と障害を受け入れていないことが悪いことのように話されていました。子どものことを心配しているから出る言葉だと知っていますが、お母さんは戸惑い混乱しているのです。誰もが簡単に受け入れらる訳ではないのに。
専門家なら受け入れていない親ごと
受け入れるという考えはないのでしょうか
親と専門家の違い
- 専門家は自分の意志でこの仕事を選んできた。「発達障害や自閉症」が自分の人生に生きがいを与えることはあっても、深刻な衝撃を与えるものではない。しかし親は自分の意志とは全く関係なく、こういう事態に陥ってしまった人がほとんど。
- 親と専門家は両極端に位置している。専門家だからこそ、障害を認めない親の気持ちが、わかりにくい面がある。
親と専門家は両極端に位置しているというのは、すごくよく分かります。お母さん達は「こんなに苦しんでいるのに。どうして優しい言葉・思いやるのある言い方ができないんだろうね」「ただのお節介おばさんと同じ」と言っている人もいました。
早期発見・早期療育と言うけれど
- 早期発見を責務とするのは専門家の側。親は専門家ではないのですから、気付かなかったとしても無理もないのです。
- 「後悔ばかりしてないで」とお母さんに言う人は、後悔している当人の悲しみを受け止めることに耐えられなくなった周囲の人々が「もうやめて」と言いたい時に出てくるのではないかと、私は思います。
- 3.4歳の頃は、親が療育に過大な期待を寄せるのも無理はありません。裏を返せば物凄く不安だからです。この時期、親の頭の中にあるのは「障害を抱えつつどう生きるか」より、言葉が出るのか、障害児になるのか、普通の子になるのなら何でもやるという気持ちで療育の場を探します。情熱とあきらめ、不安と開き直り。こういう相反する極の合間で揺れながら過ごす日々。
- あるところでは「様子を見ましょう」と言われ、別のところでは「すぐ療育を始めないと手遅れになる」と言われる。
周囲の人々とのあつれき
自分と親との関係
- 子どもを育てていると、知らず知らずのうちに自分の子ども時代を思い返し、その時の気持ちを追体験する。納得しきれていない思いがあると、理性とは裏腹に、湧いてくる情動に突き動かされ、子どもに辛くあたってしまうこともあります。
障害児の祖父母が毒親だったという話を結構聞きます。毒親に育てられた追体験と障害児の難しい子育てとで、二重三重に苦しい思いをしている人がいます。
癒すための引きこもり
- 自分を癒すためには、引きこもるのも大切な方法。子どもの「外遊び・お友達作り・発達を促す働きかけ」は可能な限り、他の人・保育園・療育機関に担ってもらい、親はまず自分の気力を回復を優先させる。親が明るい気分を取り戻せることが、子どもにとってもいい環境なのです。
- ①保育園に預けるようになって、もう公園へ行かなくていい。それだけで少し生きていく希望が出てきました。
- ②夜の誰もいない公園で、思いっきり子どもを遊ばせる。
- ③車に乗って遠くの知ってる人が誰もいない公園に行くとホッとします。
- 買い物などはあまりに大変な場合、宅配での購入や他の家族の手を借りるなど、可能な限り子連れでの外出を減らす。
公園は無理に行かなくていいと思っていますし、園の行事も出なくていいと思っています。お母さんが楽になることが一番。私もほどんど公園には連れて行っていないですし、運動会も出てません。
就学前の検査も、パニックを起こすと分かってたので「既に支援学校に決まっている」と教育委員会に連絡をすると受けなくてもいいと言われました。他のお母さんは「行かなかったし連絡もしなかったよ」と言っていました(*‘∀‘)
買い物もトドックを利用したり、夫が休みの日に行っていました。
行かないと決めるのも子どものためでした
見えない壁
- 子どもが療育センターや支援学校へ行っている場合は、親同士が仲良くなるのは比較的簡単です。一方、一般の保育園や保育園や通常学級に在籍している親は疎外感や「孤立無援」という感じを味わうことになりがちです。
- 子どもの障害を隠すのは、実際話したところで理解してもらえない。それどころか「一緒に遊んでもらえなくなった」という体験をした人もいます。隠すだけの理由があるのです。
障害の軽い子のお母さん方は、障害を隠すと言っている人が多かったです。hakuは加配の先生も付いていたので、幼稚園のお母さん達に伝えました。「どっちみち孤立するんだ」と覚悟を持って通っていましたが、お母さん方が優しくて、声をかけてくれたり心配してくれました。障害が重いからこそ返って良かったのかも知れません。
こころの中の鬼
- 人類は、子どもを見ると「かわいい」と思うようにできている。しかし、自閉的な面が強く出ている時の子どもの姿というのは、若干はずれてしまう気がします。「かわいいと思えない」と思うには無理もないのではないでしょうか。
- もともと子育てというのは「子どもの反応が、親を親として育てていく」とも言える。ところが発達の遅れた子どもの世話は、子どもの笑顔もなし、おしゃべりもなし、「報酬」がもらえない感じです。「むくわれない」子育てなのです。
- 一生懸命やっているつもりなのに、子どもの手ごたえのなさに、ザルに水を入れるような空しさを感じてしまう。
- 壊れてしまった機械がどうしてもうまく直らない時に、最後の手段として半ばヤケクソになって叩いてみることがありますが、子どもを叩いてしまうのも、同じような気持ちにかられてという面があると思います。
- 特に子どもが2歳から4歳にかけての時期は、言葉の乏しさ、こだわり、パニック、多動の激しさに圧倒されて親の疲労はピークに達します。親の集まりで「3歳前後の時期が一番大変だった」という人がたくさんいます。
本当にむくわれない子育てなんですよね。私も叩いてしまうこともありました。今は本当に後悔していますが、当時は自閉症の子育てが分からなさ過ぎて、叩けば理解できるのではと思っていました。
第2部 親と専門家をつなぐ
第2部は親と専門家の関係ついて考えてゆきたい。
専門家へ:どのように親が混乱してしまうのかを知って欲しい
親へ:混乱をときほぐし、考え方を整理する一助になって欲しい
専門家との出会い
専門家との初めての出会いであるその場所で、親子がどのように接してもらい、何を言われ、どう感じたかーーーーー実際に、その率直な感想に接してみた時、私は正直なところ、専門家への不満や怒りを感じている人の多さに驚きました。(略)専門家側があまりにそれに気が付いていないように思えます。
引用:5章専門家との出会いp70
専門家が抱くイメージは、知識があって指導する自分、一生懸命専門家の言いつけを守って努力する母親であり、「指示を出すのは専門家、親はそれに従う者」であり、勉強している親の知識は邪魔で煙たく感じられる。
私が出会った専門家でも、こういう親を見下す人は結構いました。質問をして怒鳴られたこともありました。他のお母さん方からも同じ話を聞き「あの人は要注意」と言われていました。
著者は、親が試した体験などは「何が役に立ち・立たなかった」のかという貴重な情報となるはずだから、専門家も親に教えてもらわねばならないことがあるはずだと述べています。
専門家 | 同じような問題を持つ子を集中的にみてきた経験と知識において専門家 |
親 | この子が生まれて以降育ててきた経験と知識における専門家 |
2人の専門家が、対等に関わる時、相談が実り多いものとなる |
両者が専門家ということですよね
決定権と責任は親にあります。専門家は責任を取ってはくれません。私は納得いかなければノーと言っていいし、合わなければ変えてもいいと思っています。全ては子供のためです。
以前紹介した本で、偏食指導のこんな話があります。
ある幼児の通園施設で徹底的な偏食指導をしているところがあります。子供さんを仰向けに寝かせて鼻をつまんで口を開けて給食を無理やり入れます。子供さんが拒否して吐き出すと「あなたの口から出したんだから、もう一度食べなさい」と言って、もう一度口の中に入れます。
では、そこを卒園した人たちが20年後、30年後に、どういう生活をしているかということを調べてみますと、非常に皮肉な結果になっています。ほどんとの人が太ってしまって、体重100キロを超えるようになり、糖尿病と高血圧、成人病を抱えています。
その人達の食生活を見ていきますと、どんな食事でも3分あれば終わってしまいます。噛まずに飲み込む食べ方をします。
引用:自閉症の人の人間力を育てる1章P18
専門家が責任を取れないというのはこういうことです。
その時期しか関わらないのに、自分が正しいと思い込んでいる専門家がいるのです。
医療機関での体験
- 「病院へ行きさえすれば大丈夫」「医者の言うことが一番正しい」という信仰は根強くあります。しかし「発達の遅れ」は一般的な「病気」とは違います。とにかく医者に診てもらえば良くなるというものではないのです。
- ①入園が決まりかけていたのですが、どこかで受診したか尋ねられ半年前に2回だけ行った病院の名前を出しました。園が連絡を取ったところ、医師が「集団生活は無理」と言ったのです。入園は拒否されました。半年前にチラッと診ただけの医師の言葉が信用されて悔しくてたまりません。
- ②園の先生は、とにかく○○病院に行ってくださいと要求します。ずっと相談に行っているところがあるのですが、その話をしても「病院で」の一点張り。
普通の病気ではないのに、医者の意見が重要視されます。
私は娘の聴覚過敏に理解のない学校の先生に困っていて、主治医の先生に相談をすると学校宛てにお手紙を書いてくださいました。私がいくら言ってもダメだったのに、医者の紙1枚で配慮をされたのです。そういうもんなんですよ。親の考えより、医者の意見が上なのです。
また理解してくれる医師に出会えるかどうかも難しいところ。私は夫が転勤族なのもあって、今の主治医の先生で6人目です。色んな先生がいて「甘やかしすぎ」という先生や、その逆も。先生によって見方や意見は全然違うものです。
発達検査について
- 発達検査というものは、専門家側からすると気軽に(採血と違い痛みもないし、発達の遅れの事で来ているのなら当然すべきものと)行われているように感じます。しかし、親の側からしたら不安や疑問をかきたてられたり納得できないこともあると思うのです。
- 検査はどのようなものにせよ、検査を受ける当人にとっては負担がかかるものです。時間も費用も労力も精神的緊張も味わいます。自分(あるいは我が子)が人よりできないことが多いということに気付き始め、評価されることに敏感になっている子(あるいは親)の場合はなおさらです。
- 発達検査とは
-
- 子どもの能力の全てをピタリと正確に把握できるものではない
- 将来のことも分かるわけではない
- 子どもは場面によって影響を受けやすいもの。普段より緊張・興奮して、普段できる課題ができないこともある。
- 幼少であればあるほど、結果は変動しやすいもの。
- 検査の限界もある。誤差はどうしても出る。出てきた結果の±5~10位の幅にいると考えるのが妥当。
- 違う種類の検査を行えば、また違う数値が出てくることもある。
- 検査結果は「一応今の時点での大雑把な目安」と考えておくといい
先程、偏食の話で紹介した本には次のように書かれています。
実は知能検査というものは、いろいろな矛盾を持っています。検査を受ける人のその日の気持ちや体調によって、出てくる結果は一定ではありません。また、検査を行う側に技術の未熟さがあれば、当然、結果は悪く出てきます。自閉症の人たちの特性を分かっていて配慮すればいい結果が出ますし、それを無視すれば悪い結果も出てきます。
ですからまず【知能とIQはイコールではない】と考えていただきたいと思います。
引用:自閉症の人の人間力を育てる 4章知能と脳の中の活動についてp72
著者と同じことを言っていますね
この本にはエピソードとして次の話が紹介されています。
私がこの仕事に入って一番最初に受け持ったお子さんは、今で言えば「問題児」と呼ばれるような小学1年生のお子さんでした。鈴木ビネー検査で138という非常に高い点数を示しましたが、彼は検査中ジッとしていられなくて、くずかごの中に足を突っ込んだり、部屋の中をビュンビュン飛び回っていました。そうやって受けた検査結果が138だったのです。
引用:自閉症の人の人間力を育てる 4章知能路頭の中の活動についてp73
一方、彼の学業成績はオール1です。学校ではクラスのみんなで飼っている金魚を殺してしまうとか、友達の教科書をトイレに流してしまうとかーーーそういうことをしてしまうお子さんでした。
では、このお子さんは能力が高いといえるのだろうか、頭がいいといえるのだろうかーーー私の中で混乱が起きました。
IQは知能の一部分の要素であって、IQが高いから知能が高いという判断には問題があるのではないか、ということを考え始めたのです。
そして私は、知能の内容として【知的能力】と【知的効率】という2つの側面に分けて考える必要があると考えるようになりました。
引用:自閉症の人の人間力を育てる 4章知能路頭の中の活動についてp73
診断について
- 診断にまつわる親の疑問や混乱はとても多いと感じています。見当違いをした親の問題ではなく、きちんを説明しなかった専門家の責任です。相手がどう理解するかに無頓着でいると、こういうことが起きます。
- ①医者の説明では「自閉症に非常に近いが、自閉症ではない」ということでした。それを聞いて、障害じゃないんだ、普通の子どもなんだと、すっかり安心して帰ってきました。でも、それってとんでもない見当違いだった。
- ②診察の結果「自閉症ではない」と言われました。ならば、やっぱり私の育て方がいけなかったんですよね。
「自閉症に近いが自閉症ではない」って分かりにくい言葉ですよね
- なぜ診断名をつけるのか。それは「どう対処したらよいか」の指針とするためです。本当に大切なのは「診断名」ではなく「対処法」です。親だって診断名が聞きたくて受診している訳ではありません。「診断名さえ分かれば、どうしてゆけばいいのか、分かるはず」という思いがあるからです。
- 遅れがあるような・ないような子どもは、「明らかな精神遅滞」よりも多数存在し、はっきりした自閉症より、「自閉傾向はあるものの自閉症とは診断しがたい」子どもの方がたくさんいます。
- これらの子どもは障害の程度は比較的軽いのですが、だからといって本人や家族の悩みが軽いということにはならない。見落とされやすく、理解されにくく、いくつかの問題が重なっているケースもあると思います。
この対処法も、医者から教えられる対処法は原則であって、実際は子ども一人ひとり違う。医師の対処法が上手くいかない人もいます。
障害が重くても軽くても、生きづらさには変わりはないんですよね。
障害を告知された日
- 診断名がつくことで、多くの親は非常にショックを受け、その後しばらくは混乱と悲しみと絶望の中で日々を過ごすと言っても言い過ぎではありません。
- ①相手の言うことは正しいと理性では思う。けれども感情の方はそれについてゆけない。こういうことは誰にでも起こることです。
- ②この子のことを一番分かっているのは親である私でありたいのに、あなたなんかに何が分かるのよ!と言いたい。このような親としてのプライドは勝手な思い込みではなく、ごく健全なものだと思います。
- 告知の場は「大切な場」と認識してほしいということ。時間的な余裕をみて、立ち会うスタッフにも場所などにも配慮して欲しい。可能な限り両親で来てもらうように話すことも大切だと思います。
- 一般的には「告知する人」と「親の気持ちをサポートする人」とは別であった方が、専門家も親も、互いの関係が複雑にならず、安心感を持ちやすいのではないかと思います。「そんなの信じられない」なんて気持ちは告知した相手には直接言いにくいものです。
告知でここまで配慮してくれるところは聞いたことがありません。
障害の告知は、親の希望の喪失に近いように思います。子どもの未来が失われたような喪失感、今後の育児の楽しみが全て奪われたようにも感じました。
hakuは2歳半で診断がついたのですが、乳児健診から引っかかっていたので「やっぱりね」と腑に落ちました。けれど、だからって今後のことを考えると絶望しかなかった。
子どもの能力について考える際には「できないこと」の中に潜む「できていること」についても目を向けたいと思います。(略)
オーム返しで答える子は「何かを問われたら、何かを答えねば」と理解していて、懸命に答えようとしているのです。「1+3=5」と書いた子は、足し算においては、答えは1や3より大きくなるはずだと分かっているのかも知れません。授業授開始5分後には自分の座席から立ち上がる子は、席についていなければならないと分かっていて、最初の5分はやり遂げたのです。
引用:7章障害を告知された日p108
こういう考え方好きです
療育をどう考え、どう選ぶか
- 持って生まれた能力を作り変えることを療育に期待してしまうと、療育は無力なものです。けれど持って生まれた力を生活の中にどう生かすか、こどもの生活の質(QOL)をどう豊かにするか、という点でなら療育にできることはたくさんあると思います。
- 療育の結果は分かりにくい。例えば、ある子が3歳から、ある療育機関に1年間通った結果、子どもの言葉の発達に目覚ましい伸びが見られたとします。すると「あそこに通って良かった」ということになりますが、考えてみると、その発達は全て療育によってもたらされたものでしょうか。ひょっとしたら療育などしなくても伸びたのではないかという可能性もあります。
保育園や幼稚園に通ってから急激に伸びる子もいますよね
- 療育でも、課題に素直に取り組む、一生懸命頑張る、が推奨されます。しかし意味を感じられる課題なのか、いったい何の為に頑張るのか、という問題を抜きに頑張るのは、人の意のままに操られるロボットになってしまうでしょう。自分なりの目標や達成感があっての「頑張り」であってほしい。
- 弱点は伸ばさねばならないのか?周りからの関心は「できないこと」ばかりに向き続ける。このような状態がずっと続くと、子どもは自分の「できないこと」に敏感になり、自信に乏しくなり、鬱々とした感情も溜まりやすくなります。弱いところは諦め、他の能力で補うということも真っ当な方法だと思うのです。
- 自分に対する肯定感「ここにいていいんだ」「例え能力は乏しくても自分は大切な存在なんだ」という感覚。それが何より大切。その感覚があってこそ療育も勉強も生きてきます
療育はできないことに目が向きがちですから
- 親が療育を必要とする理由
-
- 親ができない専門的な働きかけがなされる場
- 親だから色んな感情が入り込んでできないことを働きかけをしてくれる場
- 我が子のことを真摯に考え心配してくれる専門家がいることで孤立感が和らぐ
- この子の為に何かをしてあげている、親の責務を果たしているという気持ちになれる
- この療育法がいいかは分からないが、後から後悔しないためできる限りのことをしておきたい
- どこかに行っていないと周りが納得しないから
- 不安だから、みんながやっているから
- 子どもにとっては、学校の先生でもなく親でもない大人との関係が貴重
- 社会の中に療育以外の受け皿がないから
自分たちに合うものを
- 親は「専門家の言うことだから間違いないだろう」と思っていたのに、専門家によって意見が違うことを知って当惑します。
- ①噂を聞きつけて行ってみたけれど「どうもうちの子には合わない」
- ②同じ方法をとる専門家であっても、その人の雰囲気とか人となりによって、親子が受ける印象はまるで違ったものになる
- ③同じセンターなのに、今までの先生には散々なこと言われたのですが、今度の先生はとても感じが良くて、子どもも先生の言うことをよく聞いて「はーい」とお返事できたり、ご挨拶ができたりしました。「よく頑張っていますね、お母さんの努力が分かります」と言われてじーんときました。本当に人によって違うんです。子どもは正直です。
- こんな体験を何度となく繰り返して、次第に親の方もいい意味でスレてくるようです。
- 「専門家と言っても絶対的なものではない」と分かってきます。結局「この子に何がいいのか」という選択は、主体的な評価ーー「これをやったら子どもが変わったように思う」とい感触ーーで決めるしかありません。専門家の意見を鵜呑みにせず、参考として聞いておいて、最終的な判断は自分が下すのです。
- 一方「必要なものは子どもが一番よく知っている」という考え方もあります。例え言葉で表現することはできなくても、子どもが伸び伸びした表情になれる道を選んでいっていれば間違いない、子どもの反応が何よりの指針、と考えるのです。
- 「無駄な回り道をしない」という決意よりも、迷うこと、試行錯誤することを前提としてあるいてゆくこと。試行錯誤とは色々やってみること(やらないという選択も一つの行為です)。そして、その結果を一つ一つ確かめて、軌道修正してゆくことです。
親もたくさんの経験と慣れが合わさって現実を知るんですよね。私も昔よりはだいぶスルーする力や切り替える時間も早くなりました。専門家に対しても「ああこういうタイプね」と思いつつも表面上は頭を下げ、心の中はどう付き合おうかを考えています。いい意味でスレてます(*^^)
子どもは正直とは本当にそうです。障害が重いhakuも人を見る目があって、同じ療育をするSTの先生でも、イライラしてしまう人・楽しそうに素直にできる人と態度がまるで違いました。子どもが伸び伸びできる人に出会えると伸びるんですよね。
結局は人なんだと思います
家庭の中で
- 療育を頑張るのが嫌というより、人から頑張れと言われること、人から一方的に指示されることへの違和感と言ってもいいかと思います。
- ①専門家のところへいくと「あーしろ、こーしろ」と言われるのが嫌で、自然と足が遠のいてしまいます。言われるようにやれたら苦労しないって思う。言う方は簡単かも知れないけど。
- ②専門家は色んなことを助言して下さいますが、はいはいと聞いておいて、その中で出来そうなことだけやることにしています。最初は真面目に色々やってみたけれど、続かないものは続かない。
- 親は家庭で子どもに対して療育的な関りをしなかったからといって、親としての役割を放棄しているわけではありません。
- 親には、療育的な関り以外にやらねばならぬことがいっぱいあります。他のきょうだいの世話をし、夕ご飯の支度をして、宅配便が届いたら受け取りに出て、子どもと接している最中にも電話がかかってくれば出なければなりません。日常は雑多な物事に満ちており、電話一本鳴ることない療育センターの指導室とは全く違う場です。
hakuが小さい頃、私が電話をすると取り上げるというこだわりがありました。今思うと電話をしている声がうるさかったのだと思います。「電話を取られるから電話をもらっても長く話せない」と療育センターの保育士に言ったのに、詳しく聞きたいからと、電話をしてきて長々話してきました。私は電話を取られないように走り、息を切らしながら話をしたのに、笑いながら「大丈夫ですか?」って。この保育士もお母さん方から嫌われてました。
こちらのことを想像できない人にアドバイスされてもね
家庭療育について
- 生活の中に療育的な関り方を持ち込むの、体が副作用を摂取するすることに似ています。効果はあるでしょうが、副作用もあり、副作用が大きければ続けられません。あまりにも副作用が大きくなり、しかも目に見える効果がないと、なし崩し的に「もうやめ」ということになります。
- 専門家から見ていくらいい方法であっても「その家族の生活の中に受け入られるかどうか」を考えもしない助言をいくら教えてもらっても無駄です。
- 家庭で療育的な関りを実行できる大前提は、親のエネルギーに余力があることです。今、親がエネルギーの100%を費やして生活しているならば、それ以上のエネルギーを求めるのは無理です。この場合に専門家が最初に考えるべきことは、親が70%ほどのエネルギーで生活できるような工夫を提案することです。
生活習慣にまつわる助言
ここは声を大にして言いたいです
- 生活習慣を整えることは大切ですが「生活習慣の乱れで発達が遅れた」のではありません。
- 専門家から生活習慣の助言が投げかけられると「親がきちんとしてないから、子どもの発達が遅れてしまった」と、とらえてしまう人が実に多いのです。
- しかし一方では、テレビつけっぱなし、お菓子はいつもテーブルの上、食事はコンビニ弁当で、夜遅くまで遊んでいて、朝はのんびり寝ている、そういう親子だっていくらでもいるのです。その家庭の子ども達がみんな、発達や情緒に問題があるかといえば、そんなことは決してないのです。
- 「家庭内のことに一切口を出すべきではない」というのではありません。立ち入るのなら「失礼します」「お邪魔します」という礼儀、慎みをもって欲しいのです。
睡眠も偏食もトイレトレも、脳の問題が大きいと思います。
早寝早起きさせれば睡眠が改善する訳ではないですし、料理がプロ級のお母さんが作ったって偏食はよくならないのです。それを全て親のせいにしたり、親が頑張れは何とかなるなんてレベルじゃないことが、分からない保育士・保健士があまりにも多すぎます。健常児しか育てていない人のアドバイスは役には立ちませんでした。
私も療育センターの家庭訪問で、テレビを触っているhakuを見た保育士は「テレビ近くで見過ぎじゃないですか?」「いつもそうなんですか?」って。テレビに触りたい娘を離すほうが大変なのに、当り前のことを言われてもねと思っていましたよ(。-∀-)
いつまでも努力を求められる親
- 幼児期にはどちらかというと親が熱心で、思春期以降は「将来のためのチャレンジに親がついてきてくれない」という声が教師など専門家の側から聞こえてきます。
- しかしチャレンジには一端出来上がった安定を壊すという側面が必ず伴います。それには大変なエネルギーが必要で、その労力の大部分は、最終的に親が担う可能性がある。親が二の足を踏むのは当然ではないかと思います。
- 小学生時代は、幼児期や思春期と比べると比較的安定した時期です。親も気持ちの上ででまぁまぁ(かりそめ)の平穏な日々、そう簡単に手放すことはできません。
小学生の時はおとなしくても、思春期以降は難しくなる子が多いと聞いています。その年頃の子に親が何かを頑張らせるのは難しいことです。自分の考えや主張も出てきます。hakuも私が何かさせるより、先生や同級生を見て学んだりやる気になる方が多いです。
この先の道
親の気持ちの変化
- 幼児期に嵐の日々を過ごした親も、時の流れと共に、ある種の心境の変容が訪れることが多いようです。
開き直りと言ってもいいし、障害の受容にあたるとも思いますし、視点の変化とも言えます。- 「障害を認める」ということは「障害を持っている部分」を見つめられるようになることであり、同時に「障害を持っていない部分」も認められるようになるという気がします。
- ①障害はあるかも知れないけれど、その存在全部が「障害児」という一色に塗りつぶされる訳ではない。障害のある・なしよりも、我が子は〇〇という名前を持ったたった一人の人間、喜びも悲しみも感じながら生きていく存在
- ②我が子はただ、みんなと同じようには行動できないだけなのに、こんなに一生懸命やってきたのに、どうしてこんなにも非難や無理解にさらされ、不当な扱いを受けねばならないのか
- 障害児の親だから分かること
- ①この子が障害児だったから、この子にも下の兄弟たちにも、親が勝手な期待をかけて無理に頑張らせるようなことはしなくて済みます。
- ②障害児の親に対して、子どもを受けれなさいってよく言われるけど、普通の子を持つ親だって、子どものことを受け入れるなんて、できてない人が多いと思う。
小さい頃は色々なことをやらせて成長させないと私も必死でした。でも今は、人の手を借りてでもある程度の日常生活ができれば、無理をさせることないと思っています。無理や我慢をさせ努力を押し付けた結果、二次障害が出てしまっては遅いと思うのです。
とにかく二次障害が出ないこと、出ても悪化させないことが、将来は安定して暮らせる人につながると気付いたのです。
社会を変える力
- 私たちが今、あたりまえのように享受している各種の公的サービスも、その実現のために奔走し、汗を流した多くの人たちの力によって生み出されてたものに違いないと思います。
- 社会において先駆的なものを作り上げようとする時、その初期の段階では志のあるボランティア的な活動が先行し、後に行政がその価値を認めて支援するとい順序になることが多いようです。
- 無理に行動できなくても「関心を持ち続けること」だけでも立派な活動です。あくまでも「余力のできた人」「やる気のある人」が「やれる範囲」でいいから、少しでも多くの人が、社会や他の問題に直面する人への関心を持ち続けていけるといいなと思います。
- 「敵」にしか見えなかった、役所の人や教育委員会の人の中に、意外な理解者を発見することもあるかも知れません。
- 自分の立場で、つまるところ「我が子のため」だけでもいいから、よりよい環境を作ろうとすることが、後に続く人々を励まし支え、社会全体のレベルを底上げし「弱者にとって暮らしやすい」=「誰にとっても暮らしやすい社会」を作ることにつながると思います。
ほんとですね。デイサービスや支援学校・様々な制度を作ってくださった方に本当に感謝しています。
関心を持ち続けた先に、何か私にできることがあればと思っています。
私たちは、ひどい冷たい言葉ほど強く聞こえて、心に残ってしまうけど、気に掛けるくれる人はいるのだと思います。
まとめ
今回は、小林 泉さんの本をご紹介しました。本当にいい本ですね。もう売られていないのが残念です。
私はこの本を読んだおかげで、自分だけが苦しいのではないと心が楽になりました。また専門家との付き合いも、全てを鵜呑みにせずに、合わないところは辞めたりして、今までやってこれたと思っています。
自分の心の軸が定まった本となりました。
どこかで見かけたら是非手にとってみてください。